生物アルゴリズム:生命は計算できるか第1回

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作成:2004/06/27

序 ロンドンへ・・・・・・

 1980年頃,私は並列コンピュータ(後のPACS並列コンピュータシリーズ)(注1)の開発を始めていた。日本の大学の先生方は,そういう「失敗するに決まっていること」をやらない。会社はそういう儲からないことをやりたがらない(これは当然だ)。
 その並列コンピュータPACSは順調に育ち,日本を代表する並列コンピュータ(注2)として,いま国立科学博物館に収蔵されている。PACS開発で苦しかったことや,悔しかったことなどは,もう過去のことで忘れてしまっている。
 ある日,友人からコンピュータの歴史について学会誌に書いてくれという依頼があった。その頃は,PACS開発が修羅場を越えていたので,すこし引いた位置からコンピュータの歴史を勉強する気になって私はその記事の執筆を引き受けた。そして私は,歴史がいかに不正確に語られ,誤説が拡大再生産されるかを知り,驚くと同時に,他人の孫引きばかりで自分では調べもしない物書きの多さに憤慨したものだ(私の調査は『誰がどうやってコンピュータを創ったのか?』(共立出版)にまとめてある)。
 しかし,私も人を批判できない。この歴史を調べていて,バベッジ(Charles Babbage)もノイマン(John von Neumann)も,モークリー・エッカート(John Presper Eckert Jr., John W.Mauchly)も,ましてやアタナソフ(John Vincent Atanasoff)も,コンピュータ(注3)を発明していないことは明らかだったが,ただ1つ,チューリングの貢献だけははっきりと分からないまま,それがすごく気になりながら本を書いてしまっていた。
 私の歴史調査でミッシングリングであった,アラン・チューリング(Alan M.Turing)こそ,実は20世紀最大の,評価がまだ決まらない数学者であり,コンピュータサイエンスの真の創始者である。もちろんチューリングの名前は,コンピュータの専門家の間では知られているし,情報関係学科を卒業した学生なら(講義で居眠りをしていない限り)知っているはずた。チューリングを知らない人は,コンピュータ科学の専門家として扱われないと覚悟しておいたほうがいい。
 昨今,コンピュータを「文房具」や「インターネットへの覗き窓」として,要するに電話や自動車と同じような便利な道具として,その使い方だけを教えることが大学のコンピュータ教育と誤解されてきている。チューリングは何をしたのか?彼が大学院生だった頃に「汎用計算機械には計算できないことがある」という証明をし,それを証明するときに提唱したチューリングマシンが,その後のコンピュータ科学の基盤となって発展した。これらをまったく教えないで,専門教育ができたと言えるのだろうか?
 チューリングマシンこそコンピュータの定義そのものである。人工知能とその実現(AIBOもそうだ)はイミテーションゲームとして解釈されるべきだ。人間は機械の一種なのか,20世紀が終わる頃になっても,それにはまだ答えが出ていない。複雑系の研究もまだ彼の掌中にある。そしてチューリングの名前と業績を知らない者は,コンピュータの素人に他ならない。
 チューリングの残した多くのエピソードは「チューリング伝説」として有名だ。私はそれをチューリングの伝記の『アラン・チューリング,謎』というアンドリュー・ホッジス氏の著書から学んだ。それは驚くほど豊富な内容をもった伝記中の伝記と言われる内容だった。
 チューリングを一言で述べるのは難しいが,あえて一言コメントを並べれば,2次大戦中ドイツ軍のエニグマ暗号を解読して,多くの輸送船団が大西洋の底へ消えるのを救ったこと,彼の名前で呼ばれていた「チューリングマシン」を実現しようとしてユニークなコンピュータACEの開発を始動させた(しかし完成は遅れ,多くは未完で終わった)こと,戦後干されてからも世界最初のコンピュータ(それはBaby Mark-Iという。いま復元されてマンチェスターの博物館にある)を駆使して,生物の発生におけるパターンの計算をした論文を書いたこと,それは50年後の現在でも,複雑系の研究はまだ彼の論文の掌の中にいると言われているほど先駆的だったこと,人工知能を最初に深く考察し,現在「チューリングテスト」といわれているイミテーションゲームを提唱したこと,「コンピュータはペットのようになって公園を散歩する貴婦人の会話にも現れるだろう」という50年後の今日を予言していること,オリンピック代表クラスのマラソンランナーだったこと(惜しくも怪我のため選考されなかった),先駆的なホモセクシャルとして不運にも逮捕され有罪判決を受けたこと,そしてしばらくして謎の自殺を遂げていること。
 彼の死後15年ほどを経て,チューリングの業績は徐々に認識され,彼を記念して計算機学会(ACM)が設けた「A.M.チューリング賞」(ACMチューリング賞ともいう)は,コンピュータサイエンスのノーベル賞と言われるほど権威ある賞になった(日本人はまだ誰ももらっていない)。
 2000年6月,私はイギリスへチューリングの軌跡をたどる旅に出た。数学論文の舞台となったケンブリッジ大学キングスカレッジ,暗号解読部隊のいたブレッチレイパーク,人工知能と生物の計算をやったマンチェスター大学,そして最期の地デーンロウを訪ねた。

(注1)マイクロプロセッサとメモリを1つの単位(PU)として,それを格子状に並べ,隣り合ったPU同志をバスで結合する。上下と左右の端を同様に結合する。すると全体としてドーナツ型をしたPUのアレイ(配列)ができる。流体や電磁界をそのままPUアレイに投影して,超高速に計算を実行するのが,「PACS並列コンピュータ」である。1977年より開発が始まり,1990年,14GFLOPS(毎秒140億の小数点付き演算)の速度を実現した。
(注2)日本を代表するということを,自分で言うものではないとたしなめられたことがあるが,この言葉は私が考えついたのではなく,ある日本の有力なコンピュータ学者が書いた著書の中でPACSを紹介する部分で使われている。私はそれを流用しているだけなのだ。
(注3)ここでいうコンピュータの定義は,論理的にはチューリングマシンと等価な計算機械で,具体的にはプログラム制御で,プログラム内蔵で,プログラム自己書き換え可能な,電子式自動計算機械である。

第一章 計算手

 ヒースロー空港は快晴だった。夏至が近い6月7日,夕刻5時といってもまだ太陽は西の空に高い。黒い箱形タクシーの後部窓からさす日差しが暑かった。タクシーはロンドン西部の渋滞をやっと抜けて都心へ入り,パディントン駅の北,リトルベニスと呼ばれる水郷を通過するとまもなく白いホテルの前で止まった。「コロネード・タウン・ハウス・ホテル」。コロネードとは飾りのあるギリシャ風の円柱のことだ。日本の案内書によればユニークさを売りにしているプチホテルという扱いだ。ユニークって円柱のことかって?そうじゃない。ここは20世紀を代表するある有名人の生まれたホテルなのだ。1912年6月23日,ここでアラン・チューリングが生まれている。当時ここはホテルではなく,産院だった。それを記念してホテルの入り口にはイングリッシュ・ヘリテージ(英国遺産)の青いプレートがはめ込まれている。
 そこには「アラン・チューリング,暗号解読者で,コンピュータ・サイエンスの創始者。1912年-1954年」とある。そう,彼こそコンピュータの基本モデルであるチューリングマシンと人工知能のチューリングテストで有名なアラン・マティソン・チューリング(Alan Mathison Turing)である。彼は暗号解読だけではなく,数理とコンピュータと生物の形態形成の基礎理論で多くの先駆的な仕事をし,1954年6月7日,マンチェスター郊外の自宅で謎の自殺を遂げた。彼の業績は後に高く評価され,前述したようにACMチューリング賞も設けられた。しかし,その評価は20世紀ではまだ完全に決まっていないのではないかと私は思う。
 「今日は彼の命日なんだ」。心の中で合掌しながら,私はホテルに入った。通された部屋は半地下室だった。「インターネット予約でビジネス割引で,最低価格の部屋だものな,仕方ないか」。ホテルは昨年内装を新しくしたとか,壁はやけに美しい。建物は複雑な構造をしている。それは病院を改造したからだろう。テーブルにはホテルを紹介する文書があって,チューリングは暗号破りで有名とだけ書いてあった。おまけに1921年生まれとなっている。ほかにサービス絵はがきが1枚おいてある。それにはオーバーを着た背の低いおじさんが,このホテルの玄関に入るところの写真が焼き付けられていた。このおじさんは有名な精神分析学の開祖ジグムント・フロイドだ(この写真はhttp://www.turing.org.uk/turing/scrapbook/early.htmlで見られる)。フロイドは1938年避難民としてロンドンへ到着した。郊外の家が用意できるまでこのホテルにしばらく滞在したという。
 「フロイドに比べると,チューリングは一般にはほとんど知られていないから無理もない。でも,21世紀では果たしてどうだろう?」。20世紀,コンピュータはフォン・ノイマンで明け,彼を引き継いだIBMやインテルやマイクロソフトが王国を築いた。人類にとってフロイドの精神世界への道は大きな発見だったが,それを上回るかもしれない巨大な影響をコンピュータは人類に与え,その存在は日に日に拡大し浸透している。コンピュータサイエンスの創始者であるチューリングは,きっと21世紀で大きくブレークするに違いない。

誕生からケンブリッジ大学まで

 アラン・チューリングの父親は上層中産階級に属し,インドのマドラス州に赴任していた行政官だった。こういうときに子供が産まれたら,日本ならさしずめ父親だけが単身赴任するところだろう。しかし,チューリング夫妻は夫婦で赴任した。環境条件の悪いインドへ子供をつれて行くことはよくないと判断されて,彼は兄とともに,英国海峡ドーバーの近くに住んでいた退役軍人の家庭に預けられた。子供に愛の欠乏した生活を強いることは,大英帝国の世界進出の対価として,人々が支払った犠牲であった。
 アラン・チューリングは手の焼ける子供だったという。両親は時々インドから帰ってくる。9才のときに彼の母親はアランがそれまでの元気で気まぐれで誰とでも友達になる子供から,夢想的な非社交的な性格に変わっていることに気付く。彼は『すべての子供たちが知っているべき自然の驚異』というブリュースタ(アメリカ人)の書いた本を読んだ。これでアランは初めて科学というものが世の中にあるということを知った。この本はセックスと身体に関する科学的知識を子供へ(しかし肝心のところはぼかして)授けるもので,すべての物事には理由があり,それは神から授かるのではなく,科学から来るのだ,という主張で貫かれていた。たとえは生き物はすべて機械であると。
 彼は1926年,港町サザンプトンの西にあるシェルポーンというパブリックスクール(公立ではなく私立学校)へ入れられた。パブリックスクールは,生徒を鋳型にはめ込んでイギリス紳士を製造するというのが目的で,彼には自由のない生活が待っていた。アランはここでも最低の評価を受ける。「彼は初歩的な訓練をないがしろにして数学に時間を費やしている」。「彼は汚い。肌が脂ぎっている,カラーがインクで汚れでいるし,服装がだらしない」。「もしパブリックスクールに留まるのなら,もっとよく教育を受けるべきだ。もし科学の専門家になるのなら,彼はここで時間を無駄にしている」。「どの学校でも社会でも問題児とみなされる類の生徒だ」。しかし,これはアランが何にでも自分流で通す主義だったからだ。それに彼は自分がホモセクシャルであるという宿命をこの時期に深く自覚している。アインシュタイン自身が書いた一般啓蒙書を読んで,アインシュタインが書かないでいた運動法則を推察することまでしている。
 こうしてなんとか卒業時期にこぎつけた頃(また先生たちもあきらめた頃),1人の親友(1歳年上)ができた。彼の名前はクリストファー・モルコムといった。モルコムとアランは宇宙について語り合う。またモルコムはアランにとって最初の(同性への)恋の対象であったが,それは受け入れられない恋であった。彼らは共にケンブリッジ大学トリニティカレッジ(科学ではドイツのゲッチンゲン大学に次ぐ高水準と見なされていた)を目指す。モルコムは合格したが,アランは失敗した。しかし,入学を待たずにモルコムは急死する。それはアランにとって大きな衝撃だった。ア
ランはモルコムの母親や自分の母親に「モルコムにはいつか会えるような気がする。自分には彼と一緒にやるべきことが残されている。彼がまだ生きているかのように,自分の仕事に多くのエネルギーを注ぐつもりだ。モルコムはそれを望んでいることだろう」と書いている。
 1年後(1931年),アランはケンブリッジ大学のキングスカレッジ(注4)に合格する。そして,「魂の本質」という文章をモルコムの母親に送っている。そこでは,ラプラス流の自然観(すべての原子・分子の初期状態を規定すると,その後の自然界の発展が決まってしまう)と,新しい量子力学の非決定性の考え方を述べて,さらに「われわれは自由意志でもって脳の一部の原子の状態を変えることはできるだろう。身体はそれを増幅するだけだ。しかし,宇宙の他の原子はどうやって制御されているのだろう?それはほとんど偶然の集積だろう。……身体は魂を引きつけ,つかまえるが,死によって身体がそのメカニズムを失うと,魂は飛び去り,すぐに別の身体を見つけるのだろう」と述べている。(これは輪廻の考えに近い?)
 ケンブリッジ大学は,いわば大きなパブリックスクールのようなものだ。レディたちは2つのカレッジに閉じこめられていた(つまり男女別学)。アランにとっては,初めての独立した生活であり,自由に働き,考え,また自分勝手に落ち込めた。当時のイギリスでは,同性愛は法律で罰せられる罪だったが,キングスカッレジにはホモセクシャルへの一種のゲットー的な自由さがあった。しかし,アランは,そのような雰囲気をもったクラブやつきあいの場には入らず,シャイで不器用で,セイリングやランニングを好んだ。それでも彼は幾人かの「友人」をもった。アランの自分本位な性格や行動は,世間の厳しさからカレッジの壁で守られていたと言えよう。
 大学の講義は,高水準のものだった。数学は,本質的に人間社会のわずらわしい事情とは無関係なものだ。量子力学は1920年代の建設時期を終わっていた。フォン・ノイマンの有名な「量子力学の数学的基礎」(みすず書房)を読んで,その解釈には疑わしいと感じながらも,その数学的な部分を手強いと感じている。
 卒業研究静文を早々と仕上げ,マックス・ニューマン教授の「数学の基礎」という講義を受けたのは1934年,チューリング22歳のときであった。この講義で取り上げられていた数学の根元について考えていたチューリングは,長距離のランニング(怪我のために参加しなかったが,ほとんどオリンピック代表レベルだったという)の途中,牧場の草の中に横たわっていて,ある着想をえた。それは20世紀の科学で,もっともドラマチックな出来事の1つである「コンピュータ・サイエンスの始まり」であった。

(注4)ケンブリッジ大学には自治権をもったカレッジが30以上もある。カレッジは学寮といわれているように大学と宿舎が合体したもので,学生はカレッジの中で生活し,学んでいる(最近は外に住んでいる学生も多いが)。

ケム川のほとりにて

 ここまで,長々と(実はずいぶん端折って)アラン・チューリングの幼児期からキングスカレッジまでの人生を紹介してきたのは,他でもない,今日,コンピュータサイエンスといわれる科学の創始であるともいえる大論文を,若干22際でものにした天才的数学者が,どういう環境で教育されてきたのかを語りたかったからである。読者には答えはもう分かっているだろう。彼の受けた教育は,科学者を育てるというようなものでは到底なかった。
 そうだとすると,子供たちを知識漬けにして意欲を失わせ,均質なゴールに向かってひたすら追い立てているだけの現在の日本の教育環境こそ,子供の才能を枯らせ殺しているのではないか?欠乏こそ最高の学校なのではないのか?しかし,教育環境のことなど天才にとっては問題ではないのかもしれない。天才はどのような環境にあっても壁を突き破って現われ出るという。

 新入生は誰しもキングスカレッジのチャペルの壮麗さに圧倒されるという。私がケンブリッジを訪れたとき,ケム川のほとりの美しい芝生を挟んで,カレッジのチャペルと建物群は6月の日長の夕日を浴びそびえ立っていた。暗くなるまでまだ3時間はある。観光客を乗せたボートと学生のボートが川の真ん中で絡まっている。
 チャペルでは夕刻の礼拝が終わり,7時からパイプオルガンの演奏が始まった。美しいステンドグラスに見とれているうちに,スウェーデンのオルガン奏者はバッハのプレリュードとフーガの演奏を終えて,現代音楽家の作品の演奏に移っていた。曲のモダンな響きと教会の荘厳な雰囲気のギャップが面白かった。演奏が終わった後,聴衆のいく人かは芝生の横の小道を通り,ケム川を横切って裏口からケンブリッジの街へ帰ろうとしていた。しかし,裏口の鉄製のフェンスは施錠されていた。とまどう人々。そこへ女子学生が1人やってきた。彼女はキングスカレッジに所属しているらしく鍵をもっていた。口々に礼を言って私たちはフェンスを通過した。はにかむ彼女。夕日にその姿は映えて,街角に消えていった。

心の機械

 この連載はチューリングの人生講談のつもりなのだが,ここから,いきなり頭が痛くなる数理(数学の基本となる論理のこと)を語ることになって申し訳ない。しかし,そもそも「計算」とはなんぞや,という,チューリングの最初にして最大の仕事を避けて彼の人生を語ることはできない。牧草に横たわって着想をえた彼は,「計算可能な数について」という論文を書き,今日のコンピュータの基本となるモデルを提唱した。
 ここでは,チューリングが最初どのようにこの計算のモデルを発想したのか,その道筋をたどってみよう。コンピュータがまったく出現していない当時と,どこにでもゴロゴロしている現在とでは,この理論の見方も違って当然なので,必要ならば現代風解説も交えてみよう。
 アラン・チューリングがやった仕事は,数学の基礎固めに関係している。20世紀の初め頃,集合論などにおいて数理に矛盾がいくつも見つかり,数学の危機が叫ばれていた。大数学者ヒルベルトは,誰もが納得する単純な理屈から数学全体を導き出そう(公理主義という)と呼びかけていた。そのためには数学者がやっているメンタルな作業とは何なのか,数学者の心の中をモデル化しないといけない。それがチューリングの思考の原点だった(注5)。
 ある人が紙と鉛筆をもって何かを計算しようとしている場面を想像してほしい。「計算している人」とは英語でコンピュータ(Computer:計算手)と言う。運転している人をドライバ(Driver:運転手)というのと同じだ。当時(1934年頃),今われわれが持っているような「コンピュータ」はまだ出現していなかったことに注意してほしい。
 計算している人(計算手,数学者)の心理状況はどうなっているのだろう?まず計算手は紙の上の注目点にかかれている記号(一目で読み取れる範囲内にあれば複数の記号群でもいい)を読み,その記号に従って自分の「心の状態」を変え,それと同時にある記号を紙に書き,目を隣へ移す。または同じ場所に目を留めておく。これを繰り返して,ある結果がでたときに「やった!」という心の状態になって計算を終える。もちろんいつまでも悩んで堂々巡りをして計算が終わらないこともある。心の中には,有限個の状態とその間を移り変わる(遷移する)ときの方法(手順)が入っている。この手順は有限の長さだろう。なぜなら無限に長い手順は頭に入らないから。これが人間がやっている計算だ。計算というと数字を扱うものと思われがちだが,相手は記号でも式でも定理でもいい。
 「心の状態」といってもよく分からないだろう。具体的な例をあげてみよう。いま君は白紙の前に座っている。そこにはcosとただ1つだけ書かれれている。でも君にはそれは知らされていない。君は白紙全部を一目で見ることはできない。1文字分の穴があいているだけのマスク越しにしか見えないのだ。君はcosという文字列を見つけだしてそれをsinに書き換えるという仕事を命じられているとしよう(これは簡単すぎて計算とは言えないと思うかも知れない。でもこれも立派に「計算」なのだ)。
 さて,君は白紙の左上からテレビの走査線のようにマスクを動かして白紙をスキャンする。連続的に動かしてスキャンするのではなく,離散的に(1回に穴の大きさの距離だけジャンプして)スキャンする。そして,君は最初の文字cを見つけた。でもこれはcosかどうはまだ分からない。それで「もっと右を見てみよう」という心理状態(心の状態)になる。そして穴を1つ右へ移す。oが見えた。でもまだcosかどうかわからない。それで「穴をさらに右へ移そう」という気になる。するとsが見えた。でもまだcosかどうかわからない。さらに右へ移動して空白記号が見えてやっとさっき見たのはcosだったということがわかる。このときの君の心理状態は「cosを発見したので左へ移ってcosを1文字ずつsinに書き換えよう」と思っている。次にするべきことは,左へ戻ることだ。
 退屈なので話を端折りたいがもうすこし我慢してもらおう。言い忘れたが,君の心の内部には記憶がないのだ。あるのは各瞬間の心理状態という「刹那的な気分」だけなのだ。この心は前の心理状態は覚えていない。最初の位置にcがあったとか,今まで4文字読んだということも覚えていない。唯一の記憶は紙の上の記号列だけだ。
 それで文字列のいちばん左の位置は,それを通り過ぎたときに空白が見えるので,「左へ行き過ぎた。右へ1穴移ろう」という気分になる。こうして君の注視点は最初のcの位置に戻り,そこにsを上書きする。こうしてcosの文字にsinを上書きする。これで1つのcosがsinに書き換えられた。次にするべきことはさらにcosを求めて旅立つことだが,その旅は白紙の端(紙の外へでると記号がない。無記号という一種の記号が書かれているとしよう)に来て終わる。
 もっと複雑な情報処理も数学の計算も,このような単純な動作と判断の繰り返しに分解される(もちろん分解できないこともある)。計算は有限の単純な動作の集まりに分解されないといけない。有限とは計算手順に書き下ろしたとき,有限行になることだ。このとき帰納的という。帰納的で,かつ,手順を実行すると停止して終了するとき,計算可能であるという。
 心の状態とは,普通は内部状態と呼ばれている。もし入力がなければずっとそのままの状態が持続するようなものだ。状態は有限個あり,とびとびの明確な状態だ。つまりsを書きたいのかcを書きたいのか,優柔不断ではっきりしなかったり,sでもcでもない変な文字を書いてしまったということもない。記号の種類はあらかじめ決まっている。記号も1文字とは限らない。単語でもいいし文章でもいいが,それは一目で認識できて判断できないといけない。最初の紙に書かれている記号(空白も記号の一種)と計算手の内部状態も決まっている。紙は面で2次元だが,これを横方向ヘスライスして考えれば,長い1次元のテープと同じだ。
 「同じ」とはそもそも何に関して同じなのか?それはこのモデルに関しては同じ動作と同じ結果を与えるという意味だ。もちろん実際に計算している人にとって,紙に書くか,テープを巻いたり巻き戻したりして書くかは能率が大違いだろう。でもこのモデルはそういう物質世界からは超越した「論理」の世界で動いている。
 ジュースの販売機だってこのモデルのもっと簡単なもので表わせる。10円と100円玉しか受け取らない110円ジュースの販売機の内部状態は3つある。それはコインを全然受け取っていないで客待ちの状態「E」,100円を受け取っている状態「H」(もう別の客は受け付けない),または10円を受け取っている状態「T」(10円を先に入れる客もいる)の3つだ。110円を受け取った状態というのはない。なぜなら110円を受け取った瞬間にジュースという出力を出して,状態はEへ戻るから。実際には10円玉ばかりや50円玉も混ぜて入れたり,変造硬貨やゴミを入れる客もいるから,内部状態数はもっと沢山用意しないといけない。
 内部状態を意識しないとデジタル製品を相手に生きてゆけない。私の家のテレビのリモコンは何も操作しないのに,ときどきおかしくなってしまう。もちろん明らかに故障か設計ミスなのだ直接の原因は操作にあるのではなく,変な状態へはまりこんでしまうからだ。そういうときはリセット(ボタンがないときは電池をいったん抜く)するといい。これは常識だ。システムをリセット状態にして,それから正しく操作をしてゆけば正しく動作する。操作するごとに状態は離散的に(連続的にではなく,とびとびの内部状態へ)移り変わる。機械音痴だと自他共に認める人の動作を見ていると,「状態」(しばしば画面で表示されている)には頓着せず,ひとつ覚えの「操作」を繰り返して「変だ,変だ」と騒いでいることがよくある。

(注5)これは私が勝手な解釈をしているのではない。チューリングの書いた論文が本当にこういう書き方なのだ。「数を計算している人間を機械にたとえてみよう。……機械にはテープがついていて,そのテープ上に記号が書ける四角形があって……」というように。

チューリングマシン

 コンピュータもリモコンと同じく離散的な機械である。だが,コンピュータにはメモリ(テープに相当)がある(リモコンにも簡単なメモリがあることがある)。テープのない機械を一般にオートマトン(語源は自動人形),または有限状態機械という。ジュース販売機にはテープがない。テープがあれば,過去の動作の記憶が残せてもっと複雑なことができるだろう(気に入らない奴には売らない販売機もできる?)。読み書きができる無限の長さのテープがついているオートマトンをチューリングの名を取って「チューリング・マシン」とわれわれは呼んでいる。このチューリングマシンこそ,チューリングが数学をやっている計算手の内部モデルとして提案したものなのである。

 さて,このあとチューリングマシンについて詳しい話をしていきたいが,誌面がつきたようだ。続きは次号で。

チューリング年表

1912年     6月23日,ロンドンで生まれる
1926年(14歳) シェルボーンパブリックスクールに入学(〜1930年)
1930年(18歳) 親友のクリストファー・モルコムが死去
1931年(19歳) ケンブリッジ大学キングスカレッジに入学
1934年(22歳) マックス・ニューマン教授の講義を受ける
1935年(23歳) キングスカレッジのフェローに選出
1936年(24歳) 有名な論文「計算可能な数について(On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem)」を発表。米プリンストン大学へ留学(〜1938年)
1938年(26歳) キングスカレッジに戻る
1939年(27歳) イギリスがドイツに宣戦布告し,第2次世界大厳が始まる。ブレッチレイパークにおいて,エニグマ暗号解読用装置ボンベを開発する
1943年(31歳) 英米間の秘話暗号装置の開発に従事,エレクトロニクスの可能性に目覚める
1945年(33歳) 第2次世界大戦終戦。国立物理学研究所(NPL)に勤務
1946年(34歳) ACEコンピュータ開発を開始
1947年(35歳) プログラミング,人工知能の論文
1948年(36歳) マンチェスター大学へ勤務
1949年(37歳) 世界最初のコンピュータを駆使
1950年(38歳) チューリング・テストを提案した論文「計算機構と知能」を発表
1951年(39歳) 王立科学協会(ロイヤルソサエティ)のフェローに選出。生物の形態形成の計算と論文を執筆
1952年(40歳) ホモセクシャルとして有罪
1954年(42歳) 6月7日,自殺する

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