生物アルゴリズム:生命は計算できるか第5回

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作成:2004/06/30

第四章 生命と死(前編)

 どこまで行っても牧草地が続いているイギリスの田園風景が,マンチェスターに近づくと,いかにも産業都市らしい,あまり美観にかまわない(といっても日本の街よりずっときれいだが)雰囲気に変わってきた。マンチェスター大学は街の中心から南寄りにある。「52年前,ここで世界最初のコンピュータが作られて素数の計算をしたんだ」と同行者たちに講釈したのは,1948年6月に動いたコンピュータ,有名なマンチェスターBaby Mark-Iのことだ。もちろんここでの「コンピュータ」の定義は,プログラム可変内蔵方式,すなわちチューリングマシンと等価な電子計算機としておく(俗説を信じている読者諸君へ。世界最初のコンピュータは,ENIACでもなければ,アタナソフのABCでもなけれぱ,暗号解読のCOLOSSUSでもなければ,エイケンのHarvard Mark-Iでもない)。
 マンチェスター大学からオックスフォード街道を北上すると,鉄道のブリッジと交叉する。このあたりが当時は多少あやしい盛り場だったらしい。鉄道は高架になっていて,小さな駅があった。その前にある駐車場に車を停めた。高架の上は風が強い。6月とはいえ時には冷え込む。
 科学産業博物館はもう少し先にあり,離れたところに駐車したことを後悔した。博物館はもと鉄道の駅舎だったとか。騒音をたてている蒸気機関のそばを通り抜け,南アフリカ鉄道の機関車をやり過ごし,地下の臭い「下水展示」を通過する。延々と続くリアルな下水の先に,新しいコンピュータの展示館があった。ガラス張りのエレベータで昇ると,いきなり,暗いスペースにBaby Mark-Iが置いてあった。もちろんこれは復元マシンだ。開発者であったキルバーン氏を中心に,イギリスのメーカーICLがスポンサーになって復元し,50周年の1998年に公開された。
 見物にやってくる人は少ない。半世紀たっても回路素子はまだどこかに残っていたらしい。さすがイギリスだ。ラックの後ろには近代的なシンクロスコープが隠してあった。

コンピュータ・レース

 干されてケンブリッジ大学へ戻っていたチューリングは決断を迫られていた。国立物理学研究所(NPL)のダーウィン所長はチューリングに戻ってきてほしかったようだが,彼をマンチェスター大学のコンピュータ開発プロジェクトへ誘ったのは,もとキングスカレッジの教授で彼に計算可能性研究のきっかけを与え,またブレッチレイでも暗号解読で協力したマックス・ニューマンであった。
 しかし,イギリス国内の開発競争は激しく,事態は急速に進展した。チューリングが着任したとき,ニューマンはチューリングのコンピュータ論文よりは,ノイマンのそれのほうがはるかに分かりやすいと思うようになっていた。そしてすでに実質的な担当者として着任していたウィリアムスとキルバーンらの主導で,Mark-Iコンピュータの開発が始まっていた。それは国家のニーズに合うと高く評価されて,Mark-Iには10万ポンドにおよぶ予算が投入された。もたもたしている国家プロジェクトのACEとは対照的だった。
 チューリングは1949年,EDSACが稼働したときの記念会合で,「大きなルーチンのチェック」という,数字の変化を見失いがちな長いプログラムの洗練されたチェック方法について話している。この短い論文は,1960年代になってフロイド(Floyd)やホアー(Hoare)によって発展した述語論理によるプログラム検証のアイデアを,ずっと先だって提案しているものだという。
 チューリングはこのように常に時代から進みすぎていて,除け者にされがちだった。彼はマンチェスターでも疎外された。ホッジスさん(チューリングの伝記『Alan Turing:The Enigma』の著者)によれば,チューリングはコンピュータサイエンスの「トロツキー」だという(トロツキーは,レーニンとともにロシア革命を指導した同志だったが,主流派に容れられずメキシコへ亡命し,そこで暗殺された)。チューリングがマンチェスターに着任したとき(1948年),Mark-Iコンピュータの開発はもう突走っていた。この時期のチューリングはますます時代の動きから取り残されたような印象を与えるが,実はそうではない。むしろ動き出したMark-Iを本格的に使うユーザーとなっていった。彼は今日から見てもきわめて先駆的な計算をし,論文を発表している。半世紀を経たわれわれはまだチューリングの掌の中にいると言ってもいいほどその仕事には先見性があった。

知能のゲーム

 今日,チューリングの名前がついているもう1つのもの,それは,人工知能のテスト(と受け取られている)として有名な「チューリングテスト」だ。これは,Mind誌に掲載した記事「計算機構と知能」(Computing Machinery and Intelligence)で提唱された。本人は軽い気持ちで書いたという(当時学生だったロビン・ガンディに,笑いながら朗読して聞かせていたとか)。だが,これはいま読んでも深い感銘をうける論文である。ということは,50年後の今まで,人工知能を取り巻く環境は本質的には進歩しなかったということかもしれない。
 チューリングは,少年の頃から生命や自然へ大きな興味をもち,親友モルコムの母親への追悼文の中でも霊魂に対して強い関心を示している。自然の生命と向き合うことこそ,彼の原点であった。またブレッチレイパークにいた頃から,知能や生命やゲーム(チェスのアルゴリズムなど)について,ジャック・グッドらと日常的に議論していた。ACEコンピュータの大きな目的は脳を計算することだった。アメリカのコンピュータ開発や情報科学の立役者たち(シャノンら)が来たとき,またサイバネティクスの創始者ノーバート・ウィーナーが来たときも,チューリングは彼の脳へのアプローチについて,イギリス流のユーモアでもって語っている。チューリングはイギリス代表だったのである。この両者は(この時代の他の論者たちと比べて)案外近いところにいる。計算不能なことを発見した世紀の数学者は,いまや計算可能な生命へアプローチしようとしていた。
 「計算機構と知能」の論文には,いろいろなテーマが盛られている。まず有名なものは,チューリングテストと後世呼ばれたイミテーションゲームだ。このゲームはいまでも,人工知能が実現したかどうかを判定する「テスト」であると誤解されている。実は論文のなかにはテストという言葉は3カ所出てくる(すべてジェファソン教授への反論の箇所に)。しかし,チューリングの主張のポイントは,人工知能判定テストにあるのではない(と私は思う)。

チューリングテストの原点

 以下は「計算機構と知能」論文のチューリングテストの部分を星野が抄訳したもので,<>の中は星野による註である。

 「機械は考えることができるか?」という問題への答えを世論調査で決めるのは馬鹿げている。世論調査の代わりに私はこれを別のもう少し曖昧さのない問題に置き換えてみよう。それはイミテーションゲームと呼ぶもので,3人の人間でプレイされる。3人とは,男性,女性,質問者<男性・女性どちらでもいい>。質問者は別室にいる。ゲームの目的は,質問者が,他の2人が男か女かを言い当てることだ。質問者はたとえば,「あなたの髪の毛の長さを教えてください」などと質問する。
 男性は質問者が間違った判断をするようにし向ける。だから,男性の答えは,たとえば「私の髪の毛は刈り上げて長く編んでいます。9インチほどの長さです」。声の調子で質問者が分かってしまうのを防ぐ意味で,質問は文字で,できればタイプされるべきだ。理想的には2つの部屋の間でテレプリンタ<遠隔文字端末>で通信するとよい。
 女性にとってゲームの目的は,質問者を助けることだ。多分彼女にとっては正直に答えることが最良の戦略だろう。「私は女です。彼の言うことは信じないで!」と付け加えることもできるが,男性側も同じようにコメントできるので,あまり役には立たないだろう。
 さて,ここである問題を出そう。それは「もし男性が機械で置き換えられたとしたらどうなるだろう?本当の男と女の間でゲームが行なわれるときと同じぐらいの頻度で,質問者は間違った判断をするだろうか?」というものだ。これでもとの「機械は考えることができるか?」という問題は,より曖昧さのない問題に置き換わったのである。(略)
 この新しい問題の利点は,人間の物質的特質と知的能力の間に明確な線を引くことができることだ。(略)もし人間の皮膚と区別できない物質が発明されたとしよう。でも,その皮膚を考える機械に貼り付けても,機械をもっと人間らしくするのには役に立たないだろう。このイミテーションゲームでは,質問者は別室にいて,他の2人に触れることも声を聞くこともできないのだから。他の利点はこういう質問を考えてみれば分かる。
質問者「フォースブリッジをテーマにしたソネットを書いてみてください」
男性「パスさせてください。いままで詩を書けたためしがないのです」
質問者「34957を70764に加えてください」
男性「(30秒ほど黙ってから)105621です」
<正しい答えは105721。ある日本語訳では,原文の105621をわざわざ105721に訂正しているようだが,これはやり過ぎというか,これこそチューリングが闘った「世間の誤解」ともいえる。つまり「コンピュータは絶対に間違わない」という常識だ。チューリングの原文の意図は,女性は計算に弱いという常識を利用して,コンピュータはわざと間違った答えをするようにプログラムされている,と想定しているのだと思う。これを翻訳者が訂正しては元も子もない。>
質問者「あなたはチェスをやりますか?」
男性「はい」
質問者「私のキングがキングの1にいて,他に駒を持っていないとします。あなたのキングはキングの6,ルークはルークの1にいるとします。さあ,あなたの番です。どうしますか?」
男性「(15秒黙ってから)ルークをルークの8へ,王手です。」
 (略)われわれは機械が美人コンテストで目立つことを期待していないし,人間が飛行機と競争して負けたからと言って人を非難しない。このイミテーションゲームでは無能力さは関係ないのだ。(略)
 <この後,チューリングは,ここでいう機械とはコンピュータであるとし,コンピュータの基本的な説明をしている。そしてその万能性を彼のチューリングマシンの理論から解きおこしている。記述は必要にして十分で,きわめて本質的な立論であり,バベッジからのコンピュータの歴史や,神経回路にまで言及している徹底ぶりだ。そして彼は注目すべき予言をしている。それは……〉
 「いま<1950年>から50年以内に,1ギガ<ビットか?>程度のメモリをもったコンピュータによってこのイミテーションゲームをプレイしたとき,並の質問者が5分間質問したあと,70%を超える率で正解を与えることはできないだろう<つまりコンピュータを本当の女性だと誤認する確率は30%以上ある>。(略)20世紀の終わりでは,言葉の使い方や教育された人々の意見は変化し,機械は考えることができるということを普通に話せるようになるだろう。またこれを信じていることを隠す必要もなくなるだろう。」
 <このあとチューリングはイミテーションゲームへ向けられた批判への再批判を展開している。その中で興味を引くのは彼のマンチェスター大学の同僚だったジェファソン教授への反論だろう。これを要約しておく。>
 ジェフアソン教授は言う。「機械が大脳と同じであるためには,機械が単に文章を書けるだけではなく,その内容を知ることができなくてはならない。どんなメカニズムも,成功すれば喜びを感じ,真空管が壊れれば悲しみ,お世辞に嬉しがり,失敗には落ち込み,セックスに恍惚とし,ほしい物が手に入らないと怒り失望する,というようなことはないのだ」。
 これはわれわれのテストを否定しているようだが,この批判に従うと,機械が考えていることを確信するためにはわれわれが機械に成り代わらないといけないことになってしまう。そうすれば自分が感じたことを世界へ向けて語ることはできる。しかし誰もそれを正当化できない。人が考えることはその人しか分からないことになってしまう。それは唯我論だ。それではコミュニケーションが成り立たない。(略)ジェファソン教授はまさかそういう極端な唯我論者ではないだろう。多分教授にはわれわれのイミテーションゲームをテストとして喜んで受け入れていただけるだろう。このゲームで,もし女性役のプレイヤーがいないとしたときの状況は,普通世間で行なわれている口頭試問にほかならない。
 <ここで具体的なソネットに関する人間らしいリアルな会話の例があって,>もしソネット記述機械がこのような問答をしたら,ジェファソン教授はどう言うだろう。(略)要するに,機械には自意識がないという批判を支持する人は,唯我論をとらざるをえなくなり,それはできないだろうから,批判を放棄するしかなくなるだろう。
 私は自意識には神秘がないと言っているのではない。たとえば,自意識を特定しようとする試みにはある種のパラドックスがある。しかし,そういう謎を解決するのが先だとは思わない。

イミテーションゲームの今日的意味

 論文の力点はあきらかにイミテーションゲームにある。ここで主張されていることは「コンピュータを人間と同じ基準で扱おうじゃないか」というフェアプレイの精神なのだ。事実,「数学者だって数学の証明問題で間違うことがあるのに,どうしてコンピュータにだけは間違わないことを要求するのだ」とチューリングは論じている。
 人間や動物の外面からその内面,その感情,その思考を客観的に論じることができるのか?これは根本的な疑問だ。動物行動学は「科学的な対象になるのは,客観的な(誰がみても同じ)行動だけだ」という立場をとる。「ネコがごろごろ喉を鳴らすのは気持ちがいいときで,人間に甘えたいのです」とペット本には書いてあるが,これでは客観的な科学にならない。
 余談だが,この俗説は本当なのか?私の感じでは,ネコがごろごろ喉を鳴らすのは,自分の居場所を教えているときのように思う。普段ネコは自分を悟られないように静かにしている。まあ,それはどちらでもいいが,このように意見が分かれるということは,とりもなおさず,ネコの気持ちを推しはかっても科学にはならないという証拠なのだ。行動主義は操作主義ともいう。操作;たとえば喉のあたりを掻いてやると,行動;つまりネコはごろごろと音を立てた,ということだけが客観的な事実である。
 この行動主義の立場から,「機械は考えることができるか?」という問題を,客観的な(外見や声まで排除した)操作と行動の問題として置き換えたものが,チューリングのイミテーションゲームで,それが機械と動物・人間を公平に扱い,思い入れや予断を避ける唯一の方法なのだというのである。自意識などその身になってみないと分からないものだ,という唯我論的立場をチューリングはとっていないが,「いまそういう自我の神秘を剥いでいるときではない」という立場であって,自意識の神秘まで否定はしていない。これについては最後の章で再び考えてみよう。
 イミテーションゲームは,どの端末に女性が,どの端末にコンピュータがつながっていたのかという「真実」を公開し,コンピュータは何%の審査を誤らせたのかを計算して終わりとなる。チューリングの「計算機構と知能」の論文に書かれている状況では,真実は別室へ行って見れば即座に分かる。コンピュータは機械の外観,女性は女性の姿をしているから,何が真実かを悩むことはない。
 しかし,チューリングの論文から50年を経た現在,実現している人工知能のレベルは,人間の知能に達しているとは到底いえない。では人工知能のどこをどう改良し,あるいは根本的にどう作り変えるべきなのか?そもそも本当の知能とは何か?脳の中のどういう構造や機能で知能は生まれているのか?またコンピュータプログラムのどういう特徴が知能の本質を作り出しているのか?たとえ脳を解剖しても,計測器をつないで測定しても,コンピュータを分解しプログラムを一行1行調べても,知能は見えてこない。外部行動と細胞・命令語の間のどのレベルにおいて知能は発生するのか?われわれはどこか自分の好きな皮(認識のレベル)において,あるいはまったく皮を剥がない状態で,行動と機能から知能を定義し評価するほかないのだ。
 しかし,人工知能の専門家は,チューリングテストには意味がないと主張する。なぜなら本当は知能ではないインチキプログラムを素人の人間は見抜けないからだという。ときどきデタラメなセリフをわめいたり,相手の質問に答えないではぐらかしたりすると余計に分からなくなる。もう少し真面目なプログラムでは単語や構文の置き換えをする。また過去の会話データとの類似性に基づいて返答をする。たとえば古き良き人工知能時代の有名な「イライザ(Eliza)」(Weizenbaumが1965年に作成)や,最近の身近な例では「シーマン」などだ(チューリングテストを10年前からやっているレープナーコンテストがある。これについてはコラムを見てほしい)。今,インターネットの彼方で相手をしてくれる「もの」は,人間なのかコンピュータなのか機械なのか,われわれには判断できない時代になっている。外見や機能からとりあえず信じるか,信じないかという決断をわれわれは毎日下している。
 イミテーションゲームは一種の余興・イベントでしかないのだ。真面目な人工知能の判定には使えない(これについては私は専門家と同意見だ)。そしてもっと面白い(恐ろしい?)ことは,このチューリングテストに批判的な専門家たちが研究し開発した手法を使えば,イミテーションゲームでますます有利になる(一般大衆をだませる)ということなのだ。
 チューリングは50年も前にこの事態を予想していた。1951年頃の「知能機械,異端の理論」というテーマの講演で,当時としては挑発的な話をしている。「ある日,レディたちがコンピュータをお供に散歩していて,お互いに“今朝,うちのかわいいコンピュータはこんなことを言ったのですよ”と言い合うかもしれない」と。その「ある日」とは,ちょうど2001年の「今日」だ。私たちはもう,そういうコンピュータが入ったペットロボットを持っている!この予言は鳥肌が立つほどすごい。
 チューリングの人生そのものも,(友人のサークルを除いて)社会に対して男を演じ続けるほかない,“ホモセクシャル”というイミテーションゲームであったことを思い起こすべきだろう。
(次号へつづく)

ごく短いコンピュータの歴史
コンピュータは誰が発明したのか?

 そもそもコンピュータというような複雑な創造物が,あるとき突然,1人の天才によって発明されるということはない。多くの人々が漸進的な発明と改良を繰り返して今日の姿になってきたのだ。
 それでもあえて,コンピュータの発明者は誰かと問うとき,答えはコンピュータをどう定義するかで違ってくる。一般のマスコミなどは「デジタルな電子回路でできている計算機」という程度の定義をしているようだ。それなら暗号解読用のCOLOSSUS(1944年)や,弾道計算用のENIAC(1946年)が最初のコンピュータになるだろう。システムとして完成していなくてもいいのだったら,1939年ドイツのツーゼのもとでシュレヤーが試作した計算回路(100本の真空管を使い,論理和・積・否定の計算が可能だった)や,アタナソフとベリーが開発した連立一次方程式専用のABC(1939年)だろう。
 しかし,専門家が採用しているコンピュータの定義は,チューリングマシンと同等,つまりプログラム可変内蔵方式の電子計算機だから,最初のマシンは1948年6月21日,2の18乗の最大素因数を52分間の計算で求めたマンチェスター大学のBaby Mark-Iである。
 Baby Mark-Iは,ウィリアムスが,ブラウン管メモリという当時ではもっとも先駆的なランダムアクセスメモリを開発し,それが有効に働くことを試すために,その周辺にコンピュータを作ってみた(だけ?)という,徹頭徹尾ハードウェア指向のプロジェクトだった。彼らのモットーは「あまり深く考えない」(IBMの標語Thinkの正反対),「必要は発明の母」だった。
 しかし,Baby Mark-Iは正真正銘のプログラム可変内蔵方式で,プログラムやデータはスイッチによってメモリに入れられた。現在の出力装置のようなものはなかった。ブラウン管の蛍光面に保持されている2048個のスポット(ビット)電荷が記憶そのものなので,それを画面から直接読みとった。その後,Bレジスタというアドレス修飾用のハードウェアが追加され,今日の汎用レジスタへとつながった。
 ソフトウェアも含めて応用計算に使える状態になった最初のコンピュータはケンブリッジ大学(ウィルクスら)のEDSACだろう。Baby Mark-Iの1年後,1949年5月に稼働を開始した。EDSACのハードウェアはアメリカのEDVACのコピーだが,ソフトウェアでは先駆的で,今日のプログラミングのテクニックとスタイルを確立した(チューリングはEDSACのやり方を「物量で解決する悪しきアメリカの真似」だと批判した)。
 一方,アメリカのEDVACは1946年夏から,ペンシルヴァニア大学ムーアスクールにおける一連の講義で多くの人々に影響を与えた。これにはイギリスからウィルクスが参加している。しかしEDVACの完成は開発にあたった人たちの意見の相違が災いして遅れた(1951年稼働)。この間にノイマンはプリンストン大学高級研究所においてIASコンピュータの設計を始め,そのレポートは広く読まれて,後にフォンノイマンマシンと呼ばれる標準的なアーキテクチャとして普及した。
 最初の商業コンピュータ(商品化されたコンピュータ)は,モークリーとエッカート(ENIACやEDVACの開発者)の会社が製造したBINAC(1949年8月)であるといわれているが納入されてから正常に動作していないという。するとアメリカの最初の商業コンピュータは,同じくモークリー・エッカートのUNIVAC(1951年,月は不明)だが,それより数カ月早く(1951年2月)マンチェスター大学のMark-Iを商品化したFerranti Mark-Iが世界最初だとイギリスでは言われている。
 このようにコンピュータの初期の開発ではイギリスがあきらかにリードしていたが,産業が主役となる時代(1950年後半以後)になると,アメリカの企業(UNlVACのスペリー・ランドやIBM)が優位に立った。
 ビクトリア朝イギリスから1950年代までのコンピュータの歴史については,ぜひ拙著『誰がどうやってコンピュータを創ったのか?』(共立出版)を読んでほしい。
 下に掲載した年表では,参考のため,コンピュータ開発史において,最初に提案・試作され実現・使用されたイノベーションを示した。

コンピュータ開発史

1834(-1871) バベッジ(Charles Babbage)解析機関
汎用プログラム制御。提案と研究のみ。
1938(-1941) ツーゼ(Konrad Zuse)とシュレヤー(Schreyer)Z1,Z2,Z3,Z4
2進法,汎用ではない(条件判定がない)プログラム制御マシンの実現。
電子管による演算装置(1938)の試作。
1939 アタナソフとベリー(John V.Atanasoff, Clifford Berry)ABC
ガウス消去法による連立一次方程式専用計算マシン。電子式,回転再生メモリの実現(ただし未完成)。
1943(-1944) フラワーズら(T.H.Flowers)COLOSSUS
機密で詳細は不明。ローレンツ暗号解読のための相関関数計算に使用,限定されたプログラム可能。
電子式による高速計算。
1945 フォン・ノイマン(John V.Neumann)EDVAC
プログラム内蔵コンピュータの提案と設計。
1946 チューリング(Alan M.Turing)ACE
プログラム内蔵コンピュータの提案と設計。
1946 エッカートとモークレイ(J.Presper Eckert, John W.Mauchly)ENIAC
デジタル化した微分方程式解析機,固定配線プログラムの実現と使用。巨大な電子式マシンの実現と使用。
1946 スティビッツらベル研究所(George Stibitz)Model-V
リレーによる汎用(条件判定を含む)プログラム制御マシン。マルチプロセッサ構成。
1948 ウィリアムスとキルバーン(F.C.Williams, T.Kilburn)Baby Mark-I
完全な電子式プログラム可変内蔵コンピュータ(世界最初のコンピュータ)。ランダムアクセスメモリ(ウィリアムス管)。
1949 ウイルクスら(Maurice Wilkes)EDSAC
ソフトウェアも含めて使用可能になった世界最初の本当のコンピュータ。
1950(-1951) フェランティ社およびスペリー・ランド社
世界最初の商品化したコンピュータ。

チューリングテストとレープナーコンテスト

 チューリングテストを本当に行なっている「レープナー(Loebner)コンテスト」という催しがある。最初,1991年に開催されたとき,コンテストのルールはチューリングの提唱したものより限定されていた。それは会話の話題をコンテストの主催者によって指定されたものに限定することと,会話を自然なものにし相手を策略や悪知恵でもってだましてはいけないというルールだった。
 制限されたルールが採用された理由の1つは,話題を限定しないとコンピュータはトンチンカンな受け答えをしたり,非常識な答えをしてすぐに馬脚を現わすだろうと思われたこと。もう1つの理由は,会話を完全に自由化すると,はぐらかしたり,デタラメな受け答えをしたり,喧嘩を売ったり(たとえば1996年優勝者のHEXは喧嘩腰だ。HEXはコンテストのホームページからたどればダウンロードできる)して,審査員(質問者)が惑わされるからだろう。この2つの懸念は一見相反しているが,コンテストを成り立たせるために必要なものだった。
 しかし,この限定ルールは数年にして廃止され,現在参加者は自由に話題を選び,その方向を変えることができるようになっている。他の主なルールや条件(2000年のコンテストの場合)をあげておくと,会話は英語に限られ会話内容は公開される,参加している「コンピュータ」とそれと「比較される人間(以後単に人間と呼ぼう)」の最小の台数と人数が公開される,人間同士の会話も審査員同士の会話も禁止。人間の国籍も年齢も問わない。審査員には子供,障害者,認知科学の専門家などが含まれる。
 審査方法はこうだ。まず審査員たち(注*)は5分以内の会話で相手が人間かどうかを判定する(二者択一)。そして15分以内の会話で相手の人間らしさや応答性を点数評価する。賞はコンピュータの参加者のうち,最高順位(コンピュータと判定した審査員数の最大)のものが獲得する。主賞を獲得するためにはチューリングの予想「30%以上の審査員がだまされない,つまりだまされるのは70%未満」(注**)を満たしていなければならない。
 2000年のコンテスト結果はアリス(ALICE。http://www.alicebot.org/alice_page.htm)がコンピュータプログラム中では最高順位で優勝した。アリスの中身を知りたい人はhttp://www.alicebot.org/dont.htmを見てみよう。優勝したといってもチューリング予想は当たらなかった。コンピュータを人間だと判断した審査員はいなかったが,9%の確率で,審査員たちは人間をコンピュータと間違えた。最近5年間のコンテストでもこれと大体同じ傾向を示している。
 人工知能の専門家はチューリングテストに対して概して否定的な意見を持っている。それは,イライザ(注***)の成功を見ていても分かるように,素人をだますことは簡単で,このテストで人工知能の評価はできないというものだ。
 このレープナーコンテストには制約が多い。チューリングの真意はコンピュータと人間を同じ基準で扱おうということだったはず。しかし,コンテストでは,コンピュータは少なくとも2台紛れ込んでいるという情報を与え,審査員たちに疑心暗鬼を生じさせている。専門家は,わざと意地悪い質問をすることでコンピュータを見つけだす。その例をあげよう(この質問はコンテストの最終結果には無関係に行なわれたもの。アリスのホームページより抜粋した)。問答の行き違いを知るために英文も示しておく。

特別審査員:スーが家の中にいるときスーの鼻はどこにありますか?(WHERE IS SUE'S NOSE WHEN SUE IS IN HER HOUSE)
アリス:それがあるべき場所に。Open directoryでサーチしてみてください。(Where it belongs. Try searching the open directory.)
特別審査員:温かい飲み物の中で氷の塊はどうなりますか?(WHAT HAPPENS TO AN ICE CUBE IN A HOT DRINK)
アリス:試してみたら。(Try it.)
特別審査員:4匹のネコは全部で何本の足をもっていますか?(ALTOGETHER HOW MANY FEET DO FOUR CATS HAVE)
アリス:私が話していることについて何かお考えがありますか?(Do you have any idea what I am talking about?)
特別審査員:アンディの母親の父親はアンディからみてどういう関係ですか?(HOW IS THE FATHER OF ANDY'S MOTHER RELATED TO ANDY)
アリス:私が知っている限り元気です。(Fine as far as I know.)
特別審査員:上下を逆さまにしたとき,Mという文字はどういう文字に見えますか?(WHAT LETTER DOES THE LETTER M LOOK LIKE WHEN TURNED UPSIDE DOWN)
アリス:それについては後で。Open directoryでサーチしてみてください。(I'll come back to that later. Try searching the open directory.)
特別審査員:私のタイピングスタイルを真似てみてください。(PLEASE IMITATE MY TYPING STYLE)
アリス:ワウ,あなたはすごく親切だ。あなたをお待ちしていました。(Wow you are very polite. I've been waiting for you.)
特別審査員:ではあなた自身について話して下さい。(SO TELLME ABOUT YOUR SELF)
アリス:(延々と話すので省略)

 アリスは常識のある英語国民が分かることも分からない。分からない質問をはぐらかす。しかし審査員もアリスにはまともに応えないで,まるで「尋問」しているようだ。
 レープナーコンテストには,猜疑心というバイアスがかかっているので,フェアなテストとはいえないだろう。専門家はチューリングテストを知能のでき具合の検査だと理解している。検査には,彼らが研究している手法の善し悪しが適切に反映されるべきだと思っている。しかし,それはチューリングの意図とはまったく違う。チューリングは人間に対する基準と同じ基準をコンピュータにも適用しようと主張した。
 したがってまったく予備知識なしで会話をするべきなのだ。最初から相手が全部人間だと信じて会話したら,われわれはもっとだまされるだろう。英語があまりうまくない日本人や,日本人が作った英会話プログラムも参加させると,コンテストはどうなるのだろう?(ルールでは国籍も年齢も一応自由ということになっている)。英語を話す審査員は,はたして日本人と日本製のプログラムを区別することができるだろうか?区別できないとき,審査員による判定はランダムになって,確率50%付近で当たり外れするだろう。50%はチューリング基準の30%より大きい。では人工知能はチューリング基準で実現したことになるのか?まさか!
 だからチューリングテストはナンセンスなのだ,と専門家たちは主張する。しかし,インターネットやペットロボットと共に暮らす一般大衆にとって,イミテーションゲームという「正解のわからない」イベントが日常的になってきている。チューリングの予言した世界がやってきたのだ。
 私の経験だが,「アリスにはまって毎日会話を楽しんでいます。最初から相手がコンピュータだと教えられていなかったら,アリスは人間だと信じていたでしょう」と言った学生がいた。読者は公開されているいくつかのコンテスト参加プログラムと,疑いを持たないように心して対話してみることを勧める。URLはレープナーコンテストのホームページからたどれる。日本の対話プログラム(人工無脳)へのリンクは,http://www.ycf.nanet.co.jp/~skato/muno/review.htmlにある。
 2000年優勝者アリスとの典型的な会話を示しておこう。この程度の会話をアリスは十分にこなす。ときどき興醒めはするが,好意的に応答すれば結構楽しめる。コンピュータはいまやペットなのだ。

私:Hello
アリス:Hi there!
私:Call me hos.
アリス:Hi Hos.
私:Where are you living?
アリス:I am presently domiciled at San Francisco.
私:Oh, San Francisco!
アリス:Yeah that's right. I am in San Francisco too!
私:I left my heart there 30 years ago.
アリス:That's good information:Hos said he left his heart there 30 years ago.
私:Do you like San Francisco?
アリス:Yes but it is expensive.
私:What is expensive there?
アリス:It is a good question. I'll ask around and get back to you. I can ask someone about it.(I can ask云々には下線がついていて,サーチエンジンOpen directory projectへリンクされている)
私:Search engine!
アリス:Have you tried looking in the Open Directory? Ask the open directory about it.
私:No I have not.
アリス:OK. Do you think you will?
(中略)
私:What is wrong in the sentence: Do he go to Japan.
アリス:Nothing is wrong with me. Is there something wrong with you?
私:Does you think it are wrong?
アリス:I think it does I think it are wrong.
私:Do you speak proper English?
アリス:I speak only English right now, but I'd like to learn some other languages. Can you teach me a few phrases in Proper English.
私:You cannot idenfify the grammatical errors.
アリス:If you believe it, you can achieve it.
(中略)
私:Bye now.
アリス:Right now? See you later.

 英文法やスペルチェックはしていないようだ。だから日本人がコンテストへ参加するのはすごく面白いのではないか?読者で参加される人がいたら,ぜひ誘って欲しい。

(注*)2000年のコンテストでは,10名の審査員(質問者)の顔ぶれは,言語学者,化学者,音楽家,心理学者,ジャーナリスト,大学生,著述家,大学院生,哲学者(2人)で,4名の人間は,引退した教師,投資アドバイザ,大臣,ヨガ指導者であった。
(注**)『ロボットにつけるクスリ』(アスキー出版)の第4章で,チューリング予想として「70%以上の確率で人間をだますことができる」と書いたが,これは間違いで「70%以下の確率で判断を誤るだろう」が正しい。訂正してお詫びする。
(注***)イライザはパラノイアなどの患者の話し相手になる有名なプログラムで,http://www-ai.ijs.si/eliza/eliza.htmlに入れば対話できる。このイライザは言葉の置き換えなどをやるアルゴリズム型。http://www.ycf.nanet.co.jp/~skato/muno/eliza.htmlの解説を見よう。一方,アリスはCBR(事例に基づく推論)型。天気予報にたとえれば,CBRは過去の天気図のデータベースを持っていて,現在の天気から最もありそうな明日の天気を検索するもの。

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