社会システム:読み物(ゼロリスク)

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作成:2004/08/14

「もんじゅ」訴訟に思うこと

原子力若手技術者勉強会 長野 浩司

 時計の針は元へ戻せない。起こったことは,いくら抗弁しても,事実として歴史に残る。時を遡れない以上,下された審判に必要以上に憤ったり,嘆いたりすることに益は無い。現状を出発点として,そこから学ぶべきは学び,正すべきは正すことを考えるのでなければ,進歩はない。

「もんじゅ」逆転判決:冷静な対処と自戒を

 2003年1月27日,金沢高等裁判所における高速増殖原型炉「もんじゅ」設置許可無効確認訴訟において,一審判決を取り消した上で原告側勝訴とする逆転判決が下された。近年,さまざまな事故や不祥事に翻弄される日本の原子力界を,また一つ大きな激震が見舞ったといえる。事態が深刻であるほど,冷静に状況を把握し,善後策を立案し講ずるべきなのであるが,筆者の周囲の原子力関係者の間では,「不当な判決であり,言語道断」との怒りの声を多く聞く。その心情には筆者としても理解できる部分も少なくないのだが,原子力の現状への危機意識に立てば,原子力関係者として冷静に自戒すべき側面が多くあるように思う。
 実は,この連載の文責を負うわれわれ「原子力若手技術者勉強会」から派生したとも言える日本原子力学会「原子力青年ネットワーク連絡会(YGN)」wwwページの掲示板「議論の部屋」においても,本件に関する活発な議論が交わされている。本稿は,それらの議論を踏まえつつ,筆者の個人的見解を述べるものである。訴訟の当事者でなく,法律の専門家でもない筆者がこのような意見を述べることは無責任の誹りを免れないかもしれないが,あえてご甘受をお願いするものである。

科学技術にゼロリスクはない

 相前後して,2003年2月1日には,米国NASAのスペースシャトル・コロンビア号の悲劇的な空中爆発事故が発生した。ここでは同事故の詳細については省略するが,この事故に関して日本人宇宙飛行士の毛利衛氏の,事故翌日2月2日の記者会見でのメッセージを,その報道から引用したい。「科学技術に関して百パーセント安全ということは有り得ず,シミュレーションですべて予測できると思うのは間違い。悲劇を起こしたことを認識し,それを次につなげていく意識と限りなく百パーセントに近づく努力をすることが大切」
 いかに些細なミスでも,それが当該の研究開発の全体を阻害してしまうようであっては,およそ研究開発は成り立たない。その一方で,科学技術の研究開発と名がつけば,どんな無法も許されると考えるような傲慢は言語道断である。研究開発が健全に遂行されていることに対する国民の監視,それに答える説明責任の貫徹が絶対の前提条件である。それを踏まえた上で,いま一度原子力技術の研究開発の意義,それに投じる合理的な資源の配分と許容するリスクについて,この機会に国民レベルにおいて再確認することが望ましい。

教訓を謙虚に汲み取ろう

 しかしながら,今日,原子力開発利用が近年の度重なる事故や不祥事によりその信頼を失墜し,未曾有の危機にあるとの認識に立てば,今回の判決で裁判官が意図したか否かにかかわらず,以下の教訓を読み取るべきだと考える。
 第一に,多くの国民が今回の訴訟の背後に「原子力推進の体制」vs.「市民」という対立構造をイメージしていることを,軽視すべきではない。市民を原告とする行政訴訟においては,不当に抑圧された市民の声が司法の場においてもなかなか聞き届けられないかのように言われ,原告側勝訴とする今回のような判決は,それだけで「正義の勝利」であるかのように解釈されることがある。今回の判決にしても,原子力界がいたずらに感情的な反発を見せ,それがマスコミを通じて迅速に拡大流布されるようなことになれば「正義に抵抗する巨悪」と受け取られ,かえって原告側の正義のイメージを助長し,定着させる結果となる。今回判決に対する不満から,司法制度全体や裁判官個人への不平や非難を鳴らすような意見も一部にあるようだが,これらはお門違いであるばかりか,このイメージを決定的なものにしてしまい,原子力推進にとっては判決それ自体による計画推進への障害よりも大きな障害となりかねないのだ。
 1月31日に政府が同判決を不服として上告したが,何よりも重要なこととして,その際に同判決が明らかにせず,ゆえに上告審において争うべき点を,慎重にも慎重を期してあらかじめ明示し,なぜ上告が妥当であるのかを,感情論を排して冷静に説明しておくべきである。技術論の詳細には立ち入らないが,新しい情報やデータが得られた時点で,設計改良や補修工事を含む設置許可変更を行うことで,プラントの安全性や設置許可時の安全審査の信頼性を向上・補完できることについて,今回の判決が必ずしも明確な判断を下したわけではないことを指摘しておく。
 第二に,安全確保の制度的担保の再構築である。同判決は,安全審査の前提である安全基準,安全確保の理念そのものを否定したというよりは,安全審査の過程において審査対象として十分精査するべきであった事象を意図的に無視あるいは過小評価したプロセス上の瑕疵を指摘した上で,これを被告の「安全審査は妥当かつ必要十分」との主張を不成立とするに十分な要件を満たすと判断したものと解釈したい。安全確保を司るシステムに機能不全があったことを指摘したのである。この指摘に対して,規制当局はどう応えるべきであろうか。
 このことに加えて,行政行為における説明責任の再確認について指摘したい。同判決において,安全審査における見落としを理由として,後の時点で当該行政行為の無効判決が出されたことは,当該行為に携わる担当行政官の責任をより明確にするという意味で,薬害エイズ訴訟などとも同列に考えられる画期的な判決であるとも言えるのだ。原子力行政に携わる担当官,とくに原子力安全・保安院の方々には,今回判決を自らのことと任じ,一段と襟を正していただくことを切に祈念する。「原子力界の常識は,一般国民の非常識」とならないよう,これまでに何度もあった契機を逸してきた反省に立ち,今度こそ「良い方向に変わってみせる」よう,皆で努力しよう。その意味で,本判決が投げかける教訓を奇貨と受け止め,一度限りの良薬としなければならない。


原子力若手技術者勉強会 高木 直行

 判決を聞いた瞬間は思わず耳を疑い,即座に判決理由に見入った。しかし次の瞬間に頭をよぎり,ある意味で自分を納得させたのは,「判決は国民感情の代弁か」ということだった。
 本文の繰り返しになってしまうが,行政訴訟においても行政判断の聖域はなくなった現代においては,まずは「巨悪」と認識される体制側が謙虚になることから始めなければ,不信増幅の悪循環を断つことはできない。
 国の上告に対して,「反省がない」との原告の反応は予測できたものだが,一方で被告の「上告は当然の対応,国の主張を全面的にサポート,今後も国民の理解獲得に努力」との見解発表には些か戸惑った。早速,「正義に抵抗する巨悪」の印象を強めてはいないか。たとえば先のスペースシャトル事故後の会見で,NASAの秘密主義の悪評を払拭したロン・ディテモア部長なら,この時如何に語っただろう。
 今回の判決が国民感情を代弁した「裁判官の荒療治」という側面をもつならば,解決の糸口は技術論や法理論の外にもあるとみるのが自然だ。将来のエネルギー確保に向けた信念は大切にしながらも,冷静さと謙虚さをもって信頼を得ていく以外に道はない。論語に「和して同ぜず」という言葉があるが,原子力業界には「和せず同ぜず」の印象ばかりが目立つ気がしてならない。

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